
カラコルムハイウェイをカシュガルへと向かうバスの中で中国語と英語のテープを聴いている、キルギス族の少年。カラクリ湖畔の村で生まれ育ち、カシュガルの小学校に越境入学までして通う彼は、村の期待を一心に背負う存在なのかも知れない。
私の個人的な想像に過ぎないことではあるけれども、彼が初めてカシュガルに生活の場を移した時の驚きやカルチャーショックはどんなものだったのだろう、と考えてしまう。
キルギス族しかいない、キルギス語しか必要のない、しかも自給自足に近いカラクリ湖畔での暮らし。そして古くからウイグル文化の中心地として栄え、現在は漢民族人口も増え、町並みは日に日に近代化され高層ビルも珍しくないカシュガルでの暮らし。
大自然と大都会という違いに加えて、彼を取り巻く民族や風習が突然変わったことに、幼い彼はどう順応し、どんな葛藤にまみれたことだろう。
同じトルコ系の少数民族で、言語が似通っていても、キルギス族とウイグル族ではこうも違うものかと驚きがあったのかもしれない。彼が通う学校が漢民族の多い学校だったならば、順応にはさらに時間と気苦労を要したのかもしれない。
バスは、パミール高原の雪解け水の流れを何度となく横切り、その高度を徐々に下げていく。舗装のための道路工事をしている現場を迂回するため、バスはたびたびカラコルムハイウェイを下りては凸凹の砂利道や粒子の細かい砂が堆積した場所を、砂煙を上げながらゆっくりと進んでいく。
それでも、私の隣で語学テープに聴き入るキルギス族の少年の真剣な表情は変わらない。
私がさらに想像を巡らせてしまうのは、彼のその後の人生の選択だ。
自給自足の世界に生まれ、そこで他の生き方の選択肢なく生きていくことと、職業や現金が溢れる世界で生きていくこととでは、生きていく上での時間に対する意味付けがずいぶん違うような気がする。これは、パミール高原に滞在中、職業や現金が存在する世界のことを考える時に、常に同時に頭をよぎることでもあった。
自給自足の世界では、言うまでもなく、生命の維持のための食の確保が唯一にして最優先事項だろう。特に過酷な気象条件の下では、食となる家畜の飼育や農作物の栽培が容易ではなく、毎日の大半の活動はそのために費やされる。これは牧畜や農業を職業として選択することは次元が違い、現金収入の上に成り立つ“生活の維持”ではなく、まさに言葉通りの“生命の維持”が厳密な目的となる。明日も来週も来年も、今日と同じように、生命を維持するための食の生産を順調に繰り返し続けていけることが最も大切なのである。
それに対して、職業や現金が溢れる社会は、人間が健康に生命を維持し続けているだけでは許されないような枠組みや制度で埋め尽くされているようにも見える。“時間に対する意味付けが違う”と上述したのは、生命の維持を続けていくことは大前提で、それとは無関係の付加価値をつけて生きていくことが半ば生き方として義務付けられているという意味でもある。
明日の生命の維持のために今日という時間を使うなどということは、いつの間にか傍らに置かれ、例えば「社会の役に立つ」「自分にしかできないことを」といった美辞麗句が重宝される。まるでそれがさもよりよい生き方のように認識されている。それは、今日という時間に昨日までとは違う付加価値を、できることなら人とは違う付加価値をつけて過ごしていかなければならないのだと、社会がその構成員に要求している、ということだと言えはしないだろうか。
キルギス族の少年は、そんな要求を無意識的にしてくる社会でこれから生きようとしている。語学のテープも、その要求に応えていくために存在しているのかもしれない。
(Vol.60へ続く)
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