
美しいパミールの景観に囲まれたタシュクルガンの街を後にして、私はカシュガルへと向かう。
パキスタンとの国境はもう目と鼻の先なのだが、今回の旅ではパキスタンの入国ビザを持っていないため、私はタシュクルガンより西側を訪れることはできない。
パミール高原を降りて再びカシュガルへ。そして今度はタクラマカン砂漠の南側に位置するヤルカンド、ホータンを訪れるのである。
1週間ほど前にカシュガルからパミール高原を登ってきた同じカラコルムハイウェイの道を、今度は逆にカシュガルへ向かって下っていく。数日前に途中下車して滞在したカラクリ湖畔の風景を、右手に見ながら通過していく。カラクリ湖の向こう側には、人々が自給自足の生活をおくる、キルギス族の村がある。
その村を訪れたことがきっかけで、このパミール高原に滞在している間、私はずいぶんいろんなことを考えさせられたものだった。それは、単に自給自足のことに留まらず、職業のこと、現金のこと、そしてそれらが生み出している価値観のこと・・・。
バスの進行方向が逆だというだけなのに、パミール高原を下っていくバスの車窓に展開される風景は、とても新鮮だった。タシュクルガンへ向かう時にも、目を皿のようにして右に左に視線を向け、初めて足を踏み入れたパミールの大自然を詳細に観察していたつもりだったが、こんな場所を通って行っただろうかと思うほどに、見覚えのない風景が眼前に迫ってきた。きっと前回通った時も、私の視界に入ってはいたのだと思う。ただ、同じ風景でも逆方向を向いて見てみると、違った印象で違った見え方をするということなのだろう。
キルギス族が自給自足の暮らしを営むエリアを離れ、大都市カシュガルへと戻る。それは、職業のある世界、現金が溢れる世界へ戻ることでもある。
都市からやってきて自給自足の世界を眺め見て考えることと、自給自足の世界を後にして都市へと戻る時に考えることは、前述の車窓の風景の違いの話と同じように、似て非なるものなのかもしれない。基準とする立ち位置や視線を向ける方向が変わるだけで、事はずいぶん違って見えてくる、ということだ。
バスはカラクリ湖畔でいったんとまり、湖畔の村からカシュガルへ向かう数名のキルギス族を乗せた。
その中に、小学生くらいの年齢の男の子がいた。風貌から察するに10歳、小学校の3、4年生くらいだろうか。周囲に親らしき大人がいるわけでもなさそうだ。
偶然彼が私の隣の座席に座ったので、私は片言のウイグル語で彼に話しかけてみた。
「1人でカシュガルへ行くの?」「学校は?」
どうも、カラクリ湖畔の村からカシュガルの小学校へ越境入学しているらしい。休みを利用して実家に戻っていたが、もうすぐ学校が始まるので再びカシュガルへ戻るところなのだそうだ。
小学生の彼は、自分が生まれたカラクリ湖畔の村とカシュガルとをどんなふうに比較しているのだろうか。2つの世界の間にある生活や価値観の差異をどんなふうに感じ取っているのだろうか。
バスがカラクリ湖畔を出発してしばらくすると、彼は膝の上に乗せたバッグから、ヘッドホンやテープレコーダー、そしてカセットテープを取り出して、何やら真剣な表情で聴き入り始めた。カセットテープには「漢語」という文字が書かれていた。中国語のことである。
その1時間後くらいだっただろうか。彼はバッグから取り出した2つ目のカセットテープを聴き始めていた。
今度は「英語」と書かれたテープだった。
(Vol.59へ続く)
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