
自給自足以外には生きる手立てのない世界。それ以外には選択肢のない世界。
そんな環境に身を置いて、「職業が存在する世界」を眺め見てみると、その世界で当たり前のように語られる価値観は、案外限定された条件の下でしか価値を持たないのではないかと思えてくる。
例えば、成功者と呼ばれる人たちが子供たちへ語るこんな言葉の数々・・・。
「1日も早く好きなことを見つけてそれに打ち込んでください」
「人はそれぞれみんな違う。自分にしかできないことを見つけて頑張ってください」
そして、人々の間で美しく語られる格好のよいこんな言葉の数々・・・。
「個性」、「プロ意識」、「顧客の満足」。
全く異論など差し挟む余地はなく、どれもが恒久的な価値を持つ美しい言葉のようにも思えるけれども、それはどうやら私が目の前にしている自給自足の世界ではまるで通用しそうにない。そこでは、限られた環境の中で確実に食料を確保して毎日を生きながらえていくこと以上に優先するものはない。言うまでもなく、食の確保を怠ることは死を意味するからである。
生命の維持のためには、最終的に食となるものを胃袋に入れる作業が必要だという意味では、どちらの世界も当然のことながら共通している。にも関わらず、片方の世界では、「食べること」と「生きること」が表裏一体であり、もう片方の世界では食の確保とは直接的には関連のない価値観が人間にとってさも最も大切なことであるかのように語られている。
結局のところ、上述した美しい言葉の数々が価値を持つのは、なんらかの職業に従事して現金を手にし、最終的には胃袋を満たすことができる社会が機能していることが条件となるはずである。
もしかしたら、こんなことを書いて人間社会の両極にあるような世界の比較をしても意味を感じない人もいるかもしれない。
センチメートルの物差しを持って来て何インチなのかを測ろうとするような話に聞こえてしまう人もいることだろう。
けれども、自分が生きている世界の価値観がまるで通用しない場に身を置いてみたとき、その価値観の根源や背景にあるもの、さらに言えばその価値観が内包するリスクのようなものが初めて見えてくることもあるものだ。
私は、標高4000mの村を後にして、カラクリ湖畔(標高3600m)へ戻ることにした。
最初に訪れた時には軽い高山病の症状に襲われたカラクリ湖畔だが、高いところから降りてくると、呼吸がぐっと楽に感じられる。私の体もこの高地の酸素の薄さに順応してくれたようで、その後は体調の異変を感じることは全くなかった。
職業の存在。そして職業という概念を取り巻く環境。それは、私がパミール高原に滞在していた間、頭の中から離れなかったテーマでの1つでもある。
職業の存在と切り離せないものの1つに、現金の存在がある。もう少し大きな枠で捉えるならば、金融システムの存在とも言えるだろう。つまり、人が食の確保ではなく職業なるものに従事して生命を維持するためには、社会全体が、媒体物としての金銭に価値を認めていることが大前提になる、ということだ。
そのことに思いを馳せた時、かつてこの地を旅した1人の冒険家の名が私の脳裏の浮かぶ。13世紀末、このパミール高原を西側から踏破してきたマルコ・ポーロである。
彼が訪れたモンゴル帝国(元)。そこでは、当時のヨーロッパには存在しなかった、紙幣を金銭的価値を持つものとして流通させる金融システムが確立されていたのである。
(Vol.51へ続く)
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