
私が目にした標高4000mの村では、キルギス族の一日の大半は、自らが口にする食料を確保することに費やされていた。
その様子をしばらく見ていて、私は「職業」というものの不思議さを思わずにはいられなかった。というのも、その村の社会には職業というものが存在しないからである。
どの職業に就くべきか。どの職業が自分に向いているのか。報酬は? 社会的意義は? 評価は?・・・そういうことをあれこれ考えたり悩んだりすることがとても重要で、人生において職業というものの存在が非常に大きいと考えられている社会とは、明らかに対極にある社会だ。
その日は風が強く、いくつもの雲がその小さな村を包んでは、あっという間に横切って行った。雲の切れ間に出会うことはほとんどなく、7000mを超えるムズターグアタ峰も、その姿のごく一部を時折見せるだけだった。
上空を走るように移動していく雲を見上げながら、私は職業というものが厳然と存在する社会のことを考えてみた。
職業が存在する社会では、自分が生きながらえるために最も切実で必要不可欠なはずの食料の確保は、自分以外の誰かに担ってもらっていることになる。つまり私が牛を放牧しなくても牛肉を、水田の手入れをしなくても米を食べることができるのは、何らかの職業を選び現金を手にして、肉や米と交換しているからに他ならない。
自分はというと、現金という媒体物を得ることに時間を割き、食に関して自分がやっていることと言えば、口にする直前にわずかに調理をするくらいだ。仮に職業として農業や漁業や牧畜業に従事していたとしても、食料のごく一部を、現金を介さずに手にできるだけだろう。
そう考えてみると、仕事をする理由を「食べていくため」「生きていくため」と簡単に人は口にはするけれども、職業としてやっていることと生命を維持するために食べていくことは、それほど直接的な関連はないように思えてくる。
「そうは言っても、仕事をして現金を得て、食料を買わないことには実際に生きていけないのだから、切実なことに変わりはない」
そんな声もあるかもしれない。けれども、毎日従事している今の仕事でなければ他に食料を得る手立てが本当にないという人がどれほどいるだろうか。その組織のその業務でなければ、家族の生命が維持できない人が果たしているだろうか。
この村では、今日も明日も明後日も生きていたいのなら、そのためにヤクや羊をさばき、来年も生きていたいのなら、ヤクや羊に子を産ませなければならない。それ以外の選択肢は本当にない。「どうもヤクの飼育は自分には向いていない」「好きな羊の毛の手入れだけをずっとしていたい」などと言い出す者もいない。毎日の活動について、やりがいも充実感も、向き不向きも一切問われることはないのである。
(Vol.50へ続く)
|