
最近、靴が売れなくなった ―――。
靴職人のオスマンさんは、その理由をこんなふうに説明してくれた。
「カシュガルにもずいぶん漢民族が増えてきた。それで何年か前だったと思うけど、漢民族の会社が郊外に靴工場を作ったんだ。今じゃ、その工場で作られた安い靴がバザールにも出回ってるよ。
私の靴は見ての通り、1つ1つが手作り。だから、1日に縫い上げられる数には限りがある。客は当然、工場でできた安い靴を買うようになるし、だからと言って、工場生産の靴と同じ値段で売っていてはとてもやっていけないんだよ」
工場で大量生産された商品が安く出回るようになって、小さな店の商品が売れなくなっていく ―――。
現象だけを見ると、似たようなことはほとんどどこででも起こり得ることだし、実際に起こっていることだろうとも思う。自由な価格競争の結果に過ぎない、と言うこともできる。
しかし、これが一応「社会主義」という看板を掲げたままの国家で起こっていることに、私はある種の疑問を感じてしまう。
もっとも、それは「社会主義の国なのになぜ」などという疑問ではない。中国が改革解放路線を明言してからすでに20年以上は経過している。さらにその後は計画経済を放棄して、自ら「社会主義市場経済」と称して、実質的な資本主義への転換を、時に堅実に、時に大胆に実行してきていると言えるだろう。また別の言い方をすれば、改革解放路線を推し進めた結果を、「社会主義市場経済」と名付けて追認せざるを得なかったということなのかもしれない。
そう言えば、トルファンの宿で同室になったカナダ人の中年男性がこんな話をしていた。
彼は今回初めて中国へやってきて、北京や上海を訪れた後に新疆ウイグル自治区へも足を伸ばしてきたらしいのだが、北京や上海の高度な発展振りに腰を抜かしたのだと言うのだ。
「社会主義国が経済発展を遂げている、というイメージが全くなかったから驚いたよ。日本のマスコミが中国のことをどう伝えているかわからないけれど、カナダやアメリカでは、多くの人が、社会主義国の中国の都市があんなにも発展していることをほとんど想像できていないと思う」
これは結局のところ、看板として掲げられている「社会主義」という言葉が本来持っている定義のようなものを頭に置いたまま、実態を把握しようとすることから生じるギャップではないだろうか。「社会主義」という言葉そのものの定義は、中国の経済を把握する上でそれほど重要ではなく、むしろ理解の足かせにさえなり得るのかもしれない。
中国が一応は社会主義国である、ということを当の中国の人と話すと、時折、共通してこんなふうに言われることがある。
「社会主義っていうけど、名前がそうつけられているだけだよ。第一、私は党員じゃないし」
党員ではない、というのは、自分は中国共産党の党員ではない、ということだ。
靴職人のオスマンさんが口にしたことも、意味合いとしては似たようなことだろう。
「ナニ主義でもいいよ。私にとって重要なのは、私の靴が売れるか売れないかなんだから」
中国のカシュガルという都市のバザールの一角で、オスマンさんの身に起こっていることは、世界のどこかで「資本主義」を掲げている国でも当たり前に起こっている。それは、看板として掲げられた文言の意味など、実態を理解するための役に立っていない、ということでもある。
けれども、これは中国の社会主義のことに限った話ではないとも思う。
私たちを取り巻く環境にも、同じような次元の話はいくらでもあるだろう。例えば、日本の経済発展を評して「日本は世界で最も成功した社会主義国」と言われたことは、ある意味、看板に書かれた文字が「資本主義」や「自由競争」であったに過ぎず、実態は必ずしも文字がイメージする通りではなかった、ということだ。
そんなふうに考えてみると、「言葉そのものが持っている本来の定義」と「その言葉がイメージさせるもの」と「実態」というものは、往々にしてかけ離れているようにも思えてくる。
言葉というものが人の思考に多大な影響力を持ち、それが理解をも誤解をも容易に生み出すのは、そのかけ離れた状態をそれほど認識もしないまま、言葉だけでものを考えるからなのかもしれない。逆の言い方をすれば、言葉は実に軽々しく一人歩きするものだからこそ、強い影響力を持ち得る、ということだ。
これから数10年後、中国が驚異的な経済発展を遂げていたら、世界はどんな言葉で表現するだろうか。かつて日本を「世界で最も成功した社会主義国」と表現した政治家がいたように、中国が「世界で最も成功した資本主義国」と呼ばれていても不思議ではない。
オスマンさんの「ナニ主義でもいいよ」という言葉は、どのみち実態は別にあるということ、そして掲げられる言葉の軽さというものを言い得ている。
(Vol.41へ続く)
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