
エティガールモスクの正面には、「解放北路」という名の大きな通りが南北に走っていて、この通りを挟んでモスクと向かい合うように、小さなバザールのエリアが広がっている。由緒ある大きなモスクの正面で、かつウイグル族居住区の入り口にあたるので、時間を問わず、そのあたりは人やバイクやロバ車で混み合っている。
そんな小さなバザールの一角にある小さな店から、カタカタと足踏みミシンの音が聞こえてくる。店の主は、靴職人のオスマンさん。店といっても、商品が並んでいるわけではなく、作業場というほうが正確かもしれない。
私は、その時バザールで昼食を終えて通りを歩いていた。私の姿を見つけた仕事中のオスマンが手招きするので、しばらく作業場にお邪魔して話をすることになった。
作業場の広さは4畳半くらいだろうか。通りの様子がよく見える窓際にミシンが一台置かれていて、それ以外のものはといえば、縫い上げられた靴がミシンの横に無造作に積み上げられているだけだ。靴は、羊の皮を縫い合わせたシンプルなもので、狭い部屋には新しい皮の香りがたちこめている。
このオスマンさん、中国語は全くわからないそうだが、英語が少しわかる人だった。
「あと10足くらい縫ったら今日の仕事は終わりだ。私が仕事をしながらでよければ少し話そう」
オスマンさんが手にした羊の皮がミシンの上で回転しながら素早く動き、古めかしいミシンの太い針が、2つの皮を縫い合わせていく。
「カシュガルでは、中国語を話せないウイグル族は結構多いよ。この近辺には漢民族は滅多に来ないし、生活していくのにあまり必要ではないからね」
カシュガルあたりでは、中国語を話せないウイグル族が多い ――― 。
これはカシュガルに数日滞在しているだけでなんとなく実感できることでもある。例えば、この旅で最初に訪れたトルファンのような街に比べると、街の規模はカシュガルの方が遥かに大きく、人口も多い。しかし、カシュガルは古くからウイグル文化の中心地として栄えてきたからか、近年の漢民族の人口増が、街並みを根底から変えてしまっているようには見えない。真新しいビルが林立した漢民族のエリアは、エティガールモスクからはやや離れたところにあって、2つの民族の生活圏が大まかに別れているように思える。
一方トルファンでは、街の中心部あたりでもバザールのエリアを除けば、漢民族やウイグル族がカシュガルより混在していた印象がある。そのため、中国語が操れなければウイグル族の人も生活がし辛く、むしろ商売上は中国語がわかれば圧倒的にプラスだという環境だった。
もちろん、今現在の新疆の各都市の変貌ぶりを考えれば、数年、いや数ヶ月後にはカシュガルもその姿をまるで別の街のように変えてしまっていたとしても不思議ではない。さらには、カシュガルのウイグル族を取り巻く言語環境も、その変化に伴って激変する可能性はあるだろうし、それは現在進行中なのかもしれない。
上下するミシンの針先に視線を落としたまま、オスマンさんは続ける。
「最近は、私の靴もあまり売れなくなってね」
私には、一瞬オスマンさんが話題を変えたように思えたのだが、話を聞いてみるとそうではなかった。
それは、カシュガルの街の変貌、新疆の変化の一端が、このオスマンさんの小さな作業場にも影響していることを如実に表わしていることに他ならなかった。
(Vol.40へ続く)
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