子供たちが遊ぶ姿を見ていて、ふと、彼らの年齢層が実に様々であることに気がついた。下は幼稚園児くらいの年齢から、上は中学生、小学校の高学年あたりまでだろうか。子供の数が多いので、その間の年齢の子もまんべんなくいて、みんなで遊んでいる様子なのである。
一瞬、私にはその光景が珍しく見えたのだけれど、しばらくして、私自身が幼稚園児の時もそうだったことを思い出した。
幼い頃、私が近所の子供たちの輪に入って遊ぶ時、その仲間内での最年長はたしか中学1年生だった。もっとも、年齢差があり過ぎて、私とその人が2人で遊ぶということはなかったけれど、子供が大勢集まって何かをしようとすると、その人がリーダーシップをとっていた。最年少に近かった私は必死に小学生や中学生の人たちについていって遊んでいた。
ウイグル族の子供たちを見ながら、幼稚園児だった当時の私からはとてつもなく大人びて見えたその中学1年生のお兄さんのことを久々に思い出して、路地の片隅で私は懐かしい思いに浸っていた。
ところが、今度はふと、逆に自分が中学生になった時のことを思い返してみた。中学生の私は、近所に住んでいた幼稚園児と日常的に一緒に遊んでいただろうか、と。
ほとんど記憶を辿るまでもなかった。…… そんな過ごし方はしていなかったはずだ。
不思議なことを思い出したものだと懐かしさに駆られる一方で、それは少しばかり愕然とするような事実でもあった。幼稚園児の頃には中学生と遊んだのに、中学生の時は幼稚園児と遊んでいない、という事実。さらに、自分の過去をそういう視点で振り返ったことがこれまで一度もなかったという事実。
記憶を簡単に辿れる部分については、事あるごとに頭の中で反芻したり、何かの機会に人に話したりするものかもしれない。けれど、自分が全く認識していないところについては、一体どれだけ多くのことを忘れ、あるいは思い出すこともなく生きているのだろう、とも思った。
こんなことを考える場所が、別段、ウイグル自治区やカシュガルである必要はないだろう。ただ、これまで一度も思い出したことがないこと、考えたことがないことを、カシュガルの細い細い路地で突然考えてしまうというのは、とても不思議な気がするものだ。
もし、その日に思い起こすことがなければ、もしかしたら一生考えることがなかったのかもしれない。そう思うと、なんだかとても充実した1日を過ごしたような気持ちにもなったことを覚えている。
それは、自力では開けることのできない頭や心の中の引出しが、旅のなかで目にしたものによって開けられたことに対する、小さな喜びでもあったのかもしれない。
(Vol.39へ続く)
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