そういえば、カシュガルの前に訪れたアトシュでも、同じようなことを考えさせられたものだった。
私はアトシュで、グルマンブとアイジャルクンという名の2人の高校生に街を案内してもらったのだが、ロバ車に好んで乗ろうとする私を、彼女たちは、「どうしてあんなダサい乗り物に乗りたがるの?」と本気でひき止めていた。
「ダサいし、臭いし。車のほうが速いし便利だし、きれいでかっこいい」
「ロバ車なんて1日も早く自分たちの街からなくなってほしい」
2人はそう口をそろえた。
実際に、私はウイグル自治区の旅のなかで、好んでロバ車に乗せてもらっていた。小さな荷車をロバに引かせるこの乗り物は、ウルムチのような大都会の中心部を除けば、ウイグル自治区のどの街のどの通りでも見ることができるだろうし、大きな街を離れれば、今でも重要な交通手段だ。しかしある程度の規模の町では、経済発展と共にその数は確実に減少しつつある。
生活や仕事の上での移動手段として考えれば、大切なのはスピードであり輸送力であり、快適さだ。そして、いつまでも変わらずロバ車の行き交う街であって欲しいなどと思うのは、まれにその場所を訪れる者であり、ロバ車のいないところから来た者だ。さらには、ロバ車のようなものはとっくの昔に消えうせて、それよりも遥かに便利なものを享受しているところで生きている人間の、実に一方的な懐古主義的願望だとも言えるかもしれない。
これは私自身が自分で自分に言い聞かせていることでもあるけれど、こうした願望は、異国情緒や旅情に恋い焦がれる側面からだけ切り取られたもので、一番肝心なはずの、そこで日常生活を送っている人の現実というものが、どこかで忘れ去られていたりしがちだ。そういう認識は重要なことだと思う。
伝統的な生活を維持して欲しい。あるいは自然をそのままに残しておいて欲しい。そうした類のことはとても大切ではあるかもしれないけれど、美しい言葉で語られるがゆえに、そこで暮らす人の現実や願望とは乖離していても、無条件に正当化されてしまう傾向にある。
開発の進むカシュガルの街を歩きながら、そしてアトシュで交わした会話を思い出しながら、そんなことを考えていた。
(Vol.38へ続く)
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