
クズルス・キルギス自治州のアトシュを後にして、私はカシュガルへと向かう。中国の最西端に位置する都市カシュガルは、アトシュから40キロほどしか離れていないが、クズルス・キルギス自治州ではなくカシュガル地区という行政区分に属している。
新疆ウイグル自治区の南部の中でも、カシュガルあたりまで西に来ると、かなり標高が高くなってくる。アトシュやカシュガルは、タクラマカン砂漠を越え、高原地帯に差し掛かるあたりに位置していて、カシュガルの標高は1300mもある。
それにしても、ずいぶん西のほうまで、さらには中国の奥のほうまでやってきたものだという気がしてくる。ただ、考えてもみれば、"奥"というのはあくまで東側からやってきた者の感覚で、それが辺鄙なところにあることを意味するわけではない。
カシュガルは、古くからウイグル文化の中心地とされてきた。また、言うまでもなくシルクロード上の交易都市として栄えてきた街でもある。
私がトルファンを訪れた時、想像していた以上に街の中心部にビルが立ち並んでいて驚いてしまったが、カシュガルはトルファンよりはるかに大きな街なのだという。それでも、トルファンからクチャ、そしてアトシュへと西へ進んでくる道中の風景からは、とてもその先に大きな街があるとは想像できなかった。
しかし、カシュガルの繁栄振りは、マルコポーロ(13世紀)や玄奘三蔵(7世紀)の時代をはるかに超えて遡り、『漢書西域伝』の記述の中にさえ見ることができる。約2000年前には、すでに東西から訪れた旅人が驚くほどの大きな街がそこにあったということだ。
また、カシュガルは中央アジアの民族興亡の歴史を象徴するような場所でもある。歴史上、カシュガルが衰退した時期は果たしてあったのだろうかと思うほどに、中央アジアの様々な大国小国の首都として、街の色を変えつつ文化の中心地であり続けて来た。玄奘三蔵の見たカシュガルが「仏教を熱心に信仰している人が多い街」であったのに対して、約600年後のマルコポーロの時代には「住民の多くはイスラム教徒」となっている点も非常に興味深い。
旅をしながら色んな民族の人々に出会っていてつくづく実感するのは、今現在の状況も、そうした長い民族興亡や交流の歴史の延長線上にある、ということだ。つまり、どこかで終止符を打たれた歴史の上で人は暮らしているのではなく、現在進行形の歴史の線上に今の生活環境がある、という当たり前の話に改めて行きつく気がするのである。
それは、自分の日本での日常や生活環境のことを考えてみてもなんら違いはない。
例えば、なぜ自分は漢字を使っているのか。なぜ学校に英語という科目があるのか。なぜ東京の電車はあんなにも混んでいるのか。…… そんなふうに自分をとりまく数限りない習慣や環境を改めて見渡してみる。そして、その起源や原因となったものや出来事を奥の奥まで探そうとすると、何十年どころか何百年、ものによっては何千年も遡らなければならないかもしれない。さらに、もしそれら全てを手繰り寄せ、自分自身が携えている価値観や習慣の根源やその形成過程の全てを知ることができたなら、そこで見えてくるものは、壮大な文化交流の歴史であり、同時に、土地や富や生存をめぐる人間と人間の凄惨な争いの歴史でもあるだろう。どちらかと言えば、後者のほうの影響が大きいだろう、とも思う。
歴史の街カシュガルへと向かう乗合タクシーの後部座席でそんなことを考えていたら、アトシュを出発して1時間もたたないうちに、前方に大きな街が見えてきた。
ウイグル族の運転手が私のほうを振り返り、笑顔で言う。
「ケシュケル! ケシュケル!」(=ウイグル語で「カシュガル」の意)
トルファンでも、クチャでも、アトシュでも目にしなかったビル群、交通量、そして人。
「砂漠の果ての大都会」
それが、カシュガルに到着した瞬間の、私の第一印象である。
(Vol.36へ続く)
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