
新疆ウイグル自治区において、近年になって漢民族の人口が増加する前までは、当然のことながらウイグル族の人口比率は今よりも高いものだった。つまり自治区内に限れば、ウイグル族は"多数派"であり、ウイグル族以外の少数民族が街へ出ていけば、必然的にウイグル語を話さなければいけない環境に囲まれていたことになる。
そして漢民族人口が増加してきた昨今、ウイグル族を含む少数民族の人々は、都会へ出て会社で働いたり、商売をしたりする以上、中国語を操ることが要求される。
その結果、必然的に、都会で暮らす少数民族は中国語の習熟度が高く、一方で同じ民族だけで暮らしている農村などでは、中国語が全くと言っていいほど話せない人々が多い、という状況が生まれてしまっている。
言語環境が象徴しているそんな民族間の立場の違いは、高校生のグルマンブとアイジャルクンの会話にも表われていた。
もちろん2人の言葉がキルギス族の気持ちを代弁しているなどという訳ではない。しかし、これまでの旅のなかで、ウイグル族の人々の漢民族に対する不満を耳にすることが多かった私にとって、キルギス族として生きるグルマンブとアイジャルクンからの言葉は新鮮なものだった。
彼女たちは、少なくともウイグル族に対してはあまり良い印象は持っていない、というのだ。
キルギス族の立場からすれば、漢民族が近年増加してきたという事実はともかく、それ以前に、ウイグル族が自分たちの目の前にいる多数派の民族だったということになる。別の言い方をすれば、キルギス族の少数派意識は、ある意味ではウイグル族に対して形成されてきたものだということにもなるのかもしれない。ちょうどウイグル族の少数派意識が漢民族に対してのものであるように。
「漢民族が増えてきて何か変わった?」
私のそんな質問に、グルマンブはしばらく「うーん」と言って考えた後、
「ウイグル族が前よりおとなしくなった…かな?」
と確認するように隣のアイジャルクンに問い掛ける。
今度はアイジャルクンが「うーん」とつぶやいてから、
「うん、うん、そうだね」とうなずく。
彼女たちのなかには、漢民族の増加が直接的に自分たちの環境を大きく変えている、という実感が、まだそれほどはないように私には思えた。もっとも、その実感というのは、日常生活のなかで形成されるものであるから、同じアトシュの街に住んでいても、同じキルギス族であっても、当然個人差というものがある。
ただ、これはこの後しばらく新疆ウイグル自治区の様々な街や村を訪れてみて思ったのだけれど、各民族の人口比率や漢民族の人口増の度合いというものが、街や村の人々の民族意識のあり方にかなりの影響を与えていて、それがその土地の持つ雰囲気をそれぞれ個性的なものにしている、ということは言えそうな気がするのだ。
2人のキルギス族の高校生とアトシュの街をゆっくりと歩きながら、私はこの新疆ウイグル自治区における民族関係の複雑さというものを実感せずにはいられないかった。もちろんそれは、話を聞いて認識するだけの表面的なものに過ぎず、私自身が理解などという言葉を使って語れるものではないけれども、自分の日常を含めて様々な事を考えさせてくれているのもまた事実だった。
私が話を聞いたウイグル族やキルギス族の人々の意識のあり方を考えてみた時、同じような状況や構図はおそらく自分自身のなかにもいくらでもあるのではないかと思えた。それは民族意識や少数派意識についてのことではなく、もっと広い意味で何らかの自意識というものを持つ場合に、ぼんやりとであれ明確にであれ、いつの間にか相対するもの(必ずしも敵対するという意味ではなく)を目の前に置いているということだ。そして目の前のものを意識して、それと相対する"自分"についての意識が強くなればなるほど、"目の前のもの"と"自分"の2つだけを意識することになり、それ以外のものへの視点が薄れがちになるということだ。
民族間の少数派意識に話を戻せば、ウイグル族の意識のなかには自分たち以外の少数民族の存在は希薄だといわざるを得ないだろうし、キルギス族の意識についていえば、自分たちよりさらに少数の民族の存在はあまり気にしていない、ということになってしまうのだろう。
キルギス族よりもさらに少数の民族の人はどんなふうに自分たちが置かれた状況を語るだろうか。勝手な想像だけれど、仮にこんな声をあげる人がいても不思議ではない気がする。
「ウイグル族もキルギス族もたくさんいるじゃないか。少数派っていうけど、自治区や自治州の名前に民族名がちゃんとつけられているんだから、まだいいほうだよ」
実態は1つかもしれないけれど、結局どの立ち位置で、どの方向を、どんな立場で見ているのか……、そしてどの方向は見ていないのか。それによって実態の認識はいくらでも違ってくる。
きっとそれは自分自身の中にある価値観についても、自分が生きる世界に転がっている無数の価値観についても言えることで、気がついているようで、まるで気がついていないことなのかもしれない。
(Vol.33へ続く)
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