
見たことのない漢字で表記された薬をめぐって、私と医師とでジェスチャーのやり取りをしばらく続けた結果、どうやらそれは点滴だということがわかった。自分でも、病院へ来た時点でおそらく点滴を打つことにはなるだろうな、と思っていたので、最終的には安心して、日本でも使ったことがある薬だと意思表示することができた。
結局、私はその後お尻に注射を一本、さらに3時間近くかけて6本の点滴を打つことになった。
それにしても、一応"漢字を使う"という意味では共通している中国と日本だけれど、筆談などでどうにかなる時はあるものの、やはり漢字そのものがわからなかったり、1つ1つの漢字はわかってもそれを並べられるとさっぱり意味がつかめなかったりするなど、案外苦労することは多い。相手の漢民族の人にも自分の側にも、「何とか通じるのではないか」「お互い漢字を使うのだからどうにかわかるはずだ」という意識が根底にあるからか、どうにもうまく意思の疎通ができないときの落胆も大きい。せっかく稀な漢字文化を共有しているのだから、もう少し通じればなぁ、と実感することは何かと多いものである。
これは、言葉が全く通じないところを旅して現地の人とどうにかコミュニケーションをとろうとするときにいつも思うことなのだけれど、もしかしたら、人とコミュニケーションをとるときには、「きっとわかりあえるはずだ」という認識を最初に持つよりも、「そう簡単には通じないはず」ということを前提に考えたほうが、コミュニケーションは案外円滑に進むものではないだろうか。
言葉がまるで通じないところでは、とにかく自分の言っていることを相手にわかってもらおうと必死になる。表情やジェスチャーを駆使してどうにかして理解してもらう糸口を探そうとする。そして同じように相手の発する情報を何とかして理解しようと必死に耳を傾け、相手の身振り手振りを観察する。
もちろん、そこには「最終的にはわかりあいたい」という強い願望や、そこへ向かうための根気は必要だけれど、「なぜわかってくれないのか」という苛立ちのようなものは不思議と存在しない。むしろほんのわずかでも通じる部分があれば、それは大きな喜びになる。
その喜びというのは、やりとりをして最終的に伝えることができた情報の価値の大きさなどではない。それはきっと、そう簡単にコミュニケーションがとれるはずもないのに、時間をかけてお互いに相手に自分の意思を必死になって伝えようとしてコミュニケーションを築き上げたという実感を共有することからくる喜びなのだと思う。
大げさな表現に聞こえるかもしれないけれど、そんな姿勢は、言葉が通じる人同士のコミュニケーションについても同じように大切だと言えはしないだろうか。
職場で発生する問題の原因の大半は、コミュニケーション不足だといっても過言ではない。長い時間を共に過ごしてきた人との間でさえ、誤解は簡単に生じる。
でももし、人と人はそう簡単に意思の疎通ができるものではない、ということを念頭において人に接したら、状況は随分変わるのではないだろうか。
「説明したはず」「伝えたはず」「わかってもらっているはず」という態度や姿勢の中には、言葉が通じない人とのコミュニケーションには欠かせない「必死になって伝えようとする」という意識は微塵もない。受け取る側についても同じ事が言える。果たして相手が伝えようとしていることにどれほど必死に耳を傾けているか……。
言葉が通じるということは、複雑な意思疎通を可能にするための大切な条件であるかもしれない。けれど、もしかしたら、無意識のうちに、コミュニケーションにとって本来必要な条件を遠ざける要因にもなってしまっているのかもしれない。
言葉が通じない状態でコミュニケーションをとるには、互いに紐の両端をしっかりと握って離さず、どうにかしてそれを手繰り寄せて距離を縮めようとしなければならない。実際にそうでなければ、距離が縮まる可能性はない。
では、例えば自分が日本で日本人とコミュニケーションをとる時、その紐をどれほどしっかりと握っているだろうかと考えてみる……。もしかしたら、言葉が通じるがゆえに、紐を握る手に最初から力など入れていないかもしれない。いつのまにかその紐はスルスルと手から抜け落ちているのに気がつかず、言葉のやり取りだけを続けて距離を縮めようとしているのかもしれない。
上述した「大きな喜び」というのは、別の言い方をすれば、しっかりと自分が握った紐のもう一方の端を、相手も確かに自分と同じように必死に握り、手繰り寄せようとしてくれているという確信からくるものでもあるような気がする。
クチャの小さな小さな病院のベッドで、私が不思議と安心していられたのは、その確信があったからなのだと思う。病院へ連れてきてくれた宿の人との会話にも、ともに診察を受けるウイグル族の人たちとの他愛もない会話にも、医師と交わした会話にも、いつでも、紐のもう一方の端は確かにしっかりと握られているのだという実感があった。
(Vol.26へ続く)
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