
トルファンに漢民族が増え始めたのは、ディリシャティの印象では80年代の半ばあたりからなのだそうだ。石油ビジネスがトルファン近郊で始まり、そのための労働力として、近隣の省から漢民族が移住してきたという。
通りを歩きながら現在のトルファンの街並みを見渡していると、街の変貌の原因は今や石油ビジネスだけにはとどまってはないようだった。街中で、「チャイナ・テレコム」の看板が視界に入ってこないことはほとんどなく、それはここ新疆ウイグル自治区でも携帯電話が爆発的に普及しつつあることを意味していた。当然、それに付随して新しいビジネスが立ちあがっているはずだ。
携帯電話で話をしている人の姿はごく普通にトルファンでも見かけるものの、よくよく気をつけて見てみると、だいたい漢民族の人であることが多かった。もちろんウイグル族の人たちにも携帯電話は普及しつつあるが、私が訪れた2002年、ディリシャティを始め、ポケベルを持っている人の方が主流だという感は否めなかった。こうしたところにも、民族間の経済的な格差が垣間見えてくるのである。
午後はウルムチから多くのバスが到着するというので、ディリシャティは私と別れてバスターミナルでの仕事に戻っていった。彼が旅行者相手の仕事ができるのは7月から9月くらいで、その時期を除けば旅行者は激減するので今は稼ぎ時というわけなのだ。
ディリシャティは私のどんな質問にも親切に答えてくれた。もちろん私たちがかなりスムーズにコミュニケーションをとることができたのは、彼が日本語を多少話せるからではあったのだけれど、彼の態度はいつも紳士的でもあり、とても丁寧に話をしてくれる印象があった。そんなディリシャティとの会話のなかで、私の頭に残って離れなかったのは、彼が「自分の子どもは漢民族の学校に入れたい」と言ったことだった。
トルファンに漢民族が増え、街が変わっていくことを語るとき、彼は言葉の上では決してはっきりと不満のようなものを口にはしなかった。しかし彼の表情や話の内容から、私が何も感じ取らないわけではなかった。逆に、不満をあからさまには口にしないということが、私には、最後の最後にある感情的な部分は彼が敢えて黙して語らないでいるかのようにも思えた。
漢民族の学校は、中国語の習得について言えば、子どもにとって最良の環境だと言えるだろう。しかし、ウイグル族の学校に比べれば、子ども自身はより強いマイノリティ意識を抱えて学校生活を送ることになるのは明らかだ。そんな状況はディリシャティ本人も容易に想像できるはずなのだが、それでも、子どもの就職のため、より高い収入の仕事のためだと彼は複雑な表情で語っていた。それは、親として何のジレンマもないとは言い切れないけれど、経済的な格差を考えれば仕方がない、ということのようでもあった。
話を聞けば聞くほど、漢民族とウイグル族の経済格差は歴然としていた。誤解を恐れずに言ってしまうと、それは話を聞かなくても街の様子を見ていれば何となくわかるほどでもあった。
その格差というものが、もし歴然としたものでないとするならば、あるいは格差はあってもある程度の水準が確保されているならば、人はきっと経済的価値観以外に何か価値の置き所を見出して、精神的な満足を優先させたり、こだわりを重視したりするのかもしれない。しかし、現実には、その格差は旅をする者にすらあからさまに感じられるものだったと言っていい。
政治や経済の力で、民族の持つ文化が変えられていくことはよくあることかもしれない。国境が変わって民族構成比が変わったり、国の中で民族間の力関係が変わったりした時は、なおさらそういう変化が短期間で起こりがちだ。そして文化というものは、表面的な部分では案外いとも簡単に変わってしまったりするものだ。
しかし、教育が及ぼす影響というのは、政治や経済の影響力とは次元の違うもののような気がする。語学の面でも思想の面でも、そしてそれが影響する価値観の形成という意味でも。その行く先が多民族への同化であれ、対立の方向であれ、教育のなかで子どもたちにインプットされるものの長期的な影響は計り知れない。
(Vol.14へ続く)
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